展示室 農民の副業としての絹織りが郡内地方において記録にあらわれるのは、江戸時代の初期で、以後この地域を治めていた領主の秋元氏によって奨励されてから飛躍的に発展していきました。明治以降には製品開発と設備の充実をはかりながら生産を伸ばし、戦後は全国的な産地として定着していきました。
郡内織物の年表
慶長10年(1605)
寛永 9年(1632)
寛永15年(1638)

寛文3年(1663)
天和2年(1682)
正徳2年(1712)
享保16年(1731)
享保17年(1732)
文政12年(1829)
嘉永3年(1850)
●この頃、徳川家康が八王子に足軽500人を置く。この足軽たちが郡内の絹を売ったという。
●寛永 9年(1632) ●郡内領主となった秋元泰朝は、上州より絹機機具を移入し、農民に鍬を植えさせ織物を奨励する。
●『毛吹草』に郡内紬が載る。
●この頃より「海気」(織色郡内)が郡内で織り出される。
●『好色一代男』(井原西鶴)に「郡内織」が載る。
●『和漢三才図絵』(寺島良安)に郡内絹が載る。
●『甲州噺噺』に「海気は田之倉」などと郡内織物の地域別解説がみられる。
●『万金産業袋』(三宅也来)に郡内絹の解説が載る。
●この頃より、「絵海気」が織り始められる。
●粗製の織物(短尺・増量)を谷村代官所が注意取締まりを行う。
明治2年(1869)
明治6年(1873)
明治7年(1874)
明治11年(1878)
明治12年(1879)
明治15年(1882)
明治6〜20年
明治27年(1894)
明治28年(1895)
明治40年(1907)
●吉田で「洋傘地」を織り始める。
●ウィーンの万国博覧会に「海気」を出品、進歩賞を受ける。
●「海気」のハンカチーフが織り出される。
●この頃に、タテ糸を墨絵に摺り込んで織った「絵海気」が出る。
●郡内織物に合成染料が導入される。
●「絵海気」が盛んに織られ、「海気」の対米輸出が高まる。
●藤村県令(明治19年に県令を知事に改める)海気の生産が多いことから「甲斐絹」と名付ける。
●この頃、朝鮮向けの「海気」が盛んに織られる。
●ジャガード(模様織機)が使用され始める。
●力織機の導入により「甲斐絹」の機械化が進む。吉田・大月で朱子の「服裏地」を織り始める。
大正4年(1915)
大正5年(1916)
大正9年(1920)
●広幅の「甲斐絹」の輸出が盛んになる。
●朱子の「服裏地」「袖裏地」が盛んに織られる。
●郡内織物に人絹糸の応用が始まる。
昭和6年(1931)
昭和8年(1933)
昭和9年(1934)

昭和19年(1944)
昭和20年(1945)
昭和22年(1947)
昭和23年(1948)
昭和28年(1953)
●朱子の「服裏地」「座布団地」が盛んに織られる。
●中国・朝鮮・欧米に「甲斐絹」が盛んに輸出される。
●「甲斐絹」の生産が始まって以来の最高11,713,419平方ヤードを記録し、以後「甲斐絹」は減少する。力織機は7644台に増加し、手機は減少。
●この年をもって「甲斐絹」は生産されなくなる。
●GHQは織物製造停止を命令する。一ヶ月後に再開を命令する。
●織物の生産が軌道にのり始める。
●吉田織物工業組合が設立される。
●力織機の台数が戦前の最盛期と同程度に達する。


●江戸時代の機織り

江戸時代の市域の村々では、養蚕による繭をもとに絹や紬が織られていました。江戸初期には年貢納入のための換金物として織られていたのですが、中期になると自家養蚕の他によそからも繭や生糸を買って絹を生産することになりました。江戸末期には、市域の約7割ほどの家が絹織物業に従事し、織機所有台数は平均1.5台で生産量も多くなり、当時盛んに織り出されていたことがわかります。


●郡内絹と「かいき」

江戸期のこの地方の郡内絹には「郡内嶋(ぐんないじま)」「白郡内(しろぐんない)」「郡内太織(ぐんないふとおり)」「織色郡内(おりいろぐんない)」「郡内平(ぐんないひら)」などの種類が当時の記録に残されています。その中で「織色郡内」は「郡内海気ともいう」とあり、これが一般に『かいき』とよばれていた織物のようです。かいきは海気・改機・加伊岐などと書かれましたが、海気の字が最も多く用いられ、明治になると「甲斐絹」の字があてられるようになりました。
江戸時代に織られていた郡内織物の種類<「萬金産業袋」による>
「郡内嶋」
甲州郡内で織られている。幅9寸5分、丈5丈4尺、長尺は6丈2尺ある。模様・地色はさまざまで玉虫地・白地もある。地に綾があるのを八反掛けという。黒地に白の横糸一寸三分づつ浮き出ているものをこまがらという。そのほか、角つなぎ・かすり入りなどもある。京都内といって紛らわしいものがあるが、これは地が弱くて質がよくないので今は少ない。
「織色郡内」
産地・幅・長さは郡内嶋と同じ。色はいろいろあり、玉虫色の類が多い。海気に似ているので郡内海気ともいわれている。紋織り、ひし織などもある。郡内織物については白郡内・郡内嶋・織色郡内ともに甲州谷村の辺から上等のものが出る。また、鶴川でも白郡内・郡内嶋が織られているが、これは地合いが薄いので等級が落ちる。
「郡内太織」
幅・長さは郡内嶋と同じ。白の紬糸で織った物である。上等のものはつやがよく、染めてもよい。織色の無地もある。これも鶴川・殿上・八王子から出るものは、みんなしけ糸などをタテ糸に織ってあるので、量匁ばかり多くて質がよくない。
「郡内平」
これは夏の袴地である、いろいろな模様がある、生糸で織られ、地が薄く、きれいでしかも強い。一疋は五丈四尺に織り出す。袴地は三ツ切りにする。


●明治・大正期の機織り

市域の織物業が本格的に発展をとげたのは明治・大正期になってからです。江戸時代に家内副業的な規模で出発した郡内織物は、明治末〜大正に掛けての電力織機の導入といった設備の充実によって、大量生産が可能となりました。そして製品も旧来の和装物に加え、新しい時代の需要に応じて、洋傘地・紬裏地などの洋装ものを広く扱うことにより生産額を伸ばしていきました。
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織物業鑑札/明治9年(1876)
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絵甲斐絹の型紙


●戦前から戦後への機織り

戦前・戦後の一時期、織物業は国家の統制を受け、生産が落ち込みましたが、戦後の復興需要によるガチャマンの時代から、昭和30年代の高度経済成長の中でさらに発展をとげました。昭和初期に織物市が下吉田の一角に立ちましたが、そこを通称「絹屋町」とよび、月に6回ほどの市日には東京・名古屋・大阪などから問屋が集まり大変な賑わいをみせました。(ガチャマン=機をガチャンと織ると一万円になるといわれていました)
photo 絹屋町
下吉田の本町通りの本町二・三丁目・しんや辺り通称「絹屋町」といいました。
ここは昭和初期から織物の取り引きが盛んに行われた地区です。絹屋町の市は一と六の日に開かれ、この日は市内外の機業の主人が織物を持って集まり一方、東京や大阪・名古屋などに本社のある織物問屋も絹屋町に集まりました。
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郡内各地区の生産額の推移