photo 『妙法寺記』という記録の明応9年(1500)の頃に「富士へ道者参ること限りなし」とあるように、
すでに室町時代には修行者以外に、信仰のために登山をする一般の人々(導者)が多数いま
した。
このころ、修行者のひとり長谷川(藤原)角行は、独自の教えを開きました。彼の教えは江戸
時代に弟子たちによって世の中に広められ、後に富士講として庶民の間に受け入れられてい
きます。


富士行者とその信仰

角行は、戦国の動乱を鎮め、人々が安心して暮らせる世の中を願い、厳しい修行のなかで悟りを開きました。
それは、この世の全ての物が「富士仙元大菩薩・元の父母」によって作られたもので、それを信仰し、人それぞれが正しい生き方をすることが平和への道であると悟りました。その思想は弟子たちに代々受け継がれ、六世の食行身禄(じきぎょうみろく)や村上光清(むらかみこうせい)らの行者によって、一般の人々の間に広められました。
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食行身禄像(左脇:北行鏡月 像、右脇:仙行伸月 像/御師中雁丸
身禄は、寛文10年(1671)、伊勢で生れ、江戸で油屋を営むかたわら富士信仰の道に入ります。
享保18年(1733)に七合五勺の烏帽子岩で入定しました。北行鏡月(田辺十郎右衛門)は富士山
で水を売っていましたが、身禄の弟子となります。身禄の入定を見守り、『三十一日の巻』を筆記し
ました。後に御師.田辺近江を名乗ります。仙行伸月(中雁丸豊宗)は、田辺十郎右衛門の子で、身
禄入定の際に31日間、雪を茶碗に盛って身禄にすすめたといいます。後に御師.中雁丸を名乗りま
す。この3体の像は、天明8年(1788)の銘のある厨子の中に安置されていたものです。


●富士講の形成

角行から身禄・光清までの間には数代の指導者がいますが、いずれも小人数で、組織と呼べるほどのものではありませんでした。しかし、身禄の入定をきっかけに、江戸において信者が急増すると、弟子たちはそれぞれが講祖となって独立していきます。いつしか「富士講」とよばれるようになった信仰集団は、またたく間に枝別れして広まり、江戸末期には「江戸八百八町に八百八講」といわれるほどの盛時を迎えました。
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マネキ
富士講は、富士山へ登拝する際に講社名の記された
マネキを主要な施設にかかげ、自講の存在を示しまし
た。紙や板、布などの種類があります。
身禄講(上宿)の祭具/明治期
市内上吉田上宿の山本講社(御法会身禄講)が、
法会の際に使用した祭具です。現在、この講社は
途絶えています。